祖母が3月に亡くなり、今年は初盆です。

大好きな祖母でした。満100歳での大往生でした。
でも、愛する人がいなくなるということは、50歳で亡くなろうが100歳で亡くなろうが悲しいことです。
10年近くゆっくりと認知症が進んで、会うたびに私がわからなくなっていきました。

最後に会えた時は、もう私が誰か、見ただけではわからなくなっていました。
「るいだよ、わかる?」と聞くと「るいか、わかるよ」と言ってくれましたが
「私は誰かわかる?」と聞くと「××か?」と40年前のお隣さんの娘さんの名前を言っていました。

とても優しい、そして強い祖母でした。
私が散歩をねだると、疲れていてもいつも付き合ってくれました。
私のくだらない話にいつも笑ってくれました。

80歳で長男の嫁と同居をはじめましたが、うまがあわず83歳で家出をし、その後三年間帰ってきませんでした。
私はそんな、80歳を過ぎて無鉄砲な祖母が大好きでした。

だんだんと認知症も進み、物忘れがひどくご飯を食べたり、薬を飲んだりしたことを忘れ始めました。
私が30歳を過ぎても結婚しそうにないのをいつも気にしてくれていました。

 

私が35歳を過ぎたころ、たぶん祖母が私を認識できた最後の年、祖母が私の手を握り私に言いました。
祖母「あんた、連れ合いはおらんのかえ?いい人を早く見つけて、子をなさんとな(子供を産まないと、の意))」
私「なかなかいい人がいなくてね。」
祖母「・・最近な、もうよくわからんのよ。いっちょも覚えてなくて・・・これがまともな最後だと思う。もうお別れやな」
私「・・・」

 

祖母はしきりに最後だ、もうお別れだと私に告げます。
私は悲しくなって泣き出してしまいました。
あの時握っていた手が細く、頼りなく、でも温かかったことを覚えています。

 

そして、ほんの数分後、祖母は「あんた、泣いとるのな?」と優しく聞いて来ました。
どうして泣いているのか、もう覚えていませんでした。
でも泣いている私の背中をそっとさすってくれました。
認知症が進んでいても、優しい気持ちはそのままなんだと妙に冷静になったのを覚えています。
本当に優しい祖母だったのです。

 

祖母と同居していた叔母(祖母からすると長男の嫁)が、
「今日はるいちゃんが来てくれたからか、よくしゃべってわかってるみたいやな」と嬉しそうに言いました。
私からするとまだまだ大丈夫そうに見えていた祖母でしたが、もう認知症が進み、こんなに調子がいいのは久しぶりだったのです。

 

そして、やはりその日は私と祖母のお別れの日でした。

 

その日以降、長い年月、私は祖母に会いに行けませんでした。
祖母の認知症はどんどん進み、孫どころか息子や娘(叔父や母)のこともわからなくなっていきました。

 

やがて私は結婚し、子供を産み、子供が生後5か月の時に、まだ少しでも私がわかるうちに祖母に会いに行きました。
自己満足だろうことはわかっていました。もう私がわかるわけはないのです。
でも奇跡が起こればいいな、と思っていました。

 

数年ぶりに会った祖母は、痩せてはいましたが元気そうでした。
でも、奇跡は起こりませんでした。

やはり私のことはわかりませんでした。
悲しくて泣きそうでしたが、今度は子供も、夫も一緒です。
涙をこらえて明るく振舞いました。

私「おばあちゃん、これ、私の旦那。これ、私の子供、おばあちゃんのひ孫だよ!!」
私は少しでも届けばと、必死に伝えました。

祖母「るいの子?そうか・・」目を細めて私の子供を見ていました。撫でてもくれました。
でも私が誰なのか、やっぱりわからないようでした。
自分の娘の子供が「るい」というのは覚えていました。
でも、目の前に立っている人間が誰なのかわかりませんでした。

叔母は私ががっかりしないよう、毎日写真を見せて名前を言わせていたようです。
でも、数分で記憶はリセットされ、毎日記憶が薄れていく中で、数年会わない人間を覚えておくのはしんどかったようです。

いろんな人に無理をしてもらい、私の都合で祖母に子を会わせました。
長距離移動で子供にも負担をかけました。
そんな中祖母が生きている間に、結婚の報告ができ、ひ孫を会わせることができました。
生きている祖母に会えるのは最後であろうその日、寂しいながらもまあ満足でした。

 

そして、本当にそれが最後の日になってしまいました。

子はもう5歳になりました。その日のことを覚えているわけもありません。
でも、あの優しい手で撫でてもらったからなのか、優しい子に育っています。

 

初盆です。
祖母はかえって来てくれているのでしょうか?
優しい祖母でした。きっと帰ってきてくれているのでしょう。
会いたいです、おばあちゃん。大好きでした。

いや、今でも大好きです。

 

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